子育てに絵本を/宇佐美美絵子/05年5月号
みずみずしい感性と豊かな創造性をはぐくむのは何といっても幼い時から感動するものにたくんふれることだと思う。
まして、それが自分の大好きなお父さん、お母さん、お友達が一緒で、
ともによろこび、共に悲しみ、共に楽しんでくれるなら子供にとって至福の喜びとなって心に残る。
演劇を見ることはもちろんだが絵本も詠み手の息づかいや声を通して見知らぬ世界がすぐ目の前に見えてくる。
読み手と聞き手が一体になって楽しみを分かち合えるのは表現読みをするものの特典だろうか?
今後表現読みの学集会をやってみたいと思っているがどなたかお仲間になってくれませんか?
子育てに絵本を/宇佐美美絵子/03年4月号
まったく我が店のすぐそばに住んでいる人だとはつゆ知らず講演会を開きに行った。
飯野和好絵本作家。
代表作:「むかでの医者むかえ」/福音館・「ねぎぼうずのあさたろう」/福音館 などがある。
子どもの頃からチャンバラ遊びが大好きだったから絵を書いても時代がかかってしまうんです。
と話すのにも何となく時代がかかっていて笑ってしまう。
「ねぎぼうずのあさたろう」は朗曲調にかかれているがどんなふうに読み聞かせるのか質問したら、
先生自身うなって読んでくれた。
「私はね絵本を書きながら、『川風たもとにゆらりとうけてぇ〜』と唄いながら書いているんですよ。
楽しいですよ。」とおっしゃるが読み聞かせる身になってもらいたい。
昔私の父親が広沢寅造が好きだとまねしてたのを聞いたおぼえがあるがとても、
そんな節はおぼえられない。
こっそり誰もいない家の中でやってみたがウワーむずかしい!
うまく読めたらたのしいだろうなー
子育てに絵本を (7) 宇佐美美絵子
絵本を読んで聞かせるものも、読み手が感じとった心を聞き手に伝える伝道師みたいなものだと思う。
ところが夏休みで、はしゃいでいる子どもたちの耳に伝道師のことばなんか聞こえない。
男の子は、座布団を投げ合っている。
だるそうに寝転んでいる子もいる。
2〜3人の女の子たちだけきちんと膝をそろえて聞いている。
「ねえ、人頭石ってなに?」いきなり寝転んでいた子が起き上がって質問する。
−そうね、130cmっくらい。
このくらいの高さの石でね、
この石と同じ高さの背丈がなかったら税金を払わなくちゃいけないんだってーと
説明すると「義行はもうとられるな」「あ、なお美もだな」
「おれはチビで徳したな、大人になっても小さいといいね」
−ところがチビでも10才になったら全員払わせられるんだよー
「え〜ずるいよ、誰が決めたんだよ」「沖縄の殿様だろ」「ふざけやがって」
「頭にくるな、早くその先読んでよ」
もう誰も座布団を投げていない、皆、心を一つにして怒り、悲しみ、力を合わせて悪と戦った。
一冊の本が心を通わせてくれた。
『笛ふきカナシー』(沖縄民話)の読み聞かせより。
高学年部学習より/8月号広報より
〜小学生高学年・中学生にとって子ども劇場は必要か!〜
パネラー 山崎先生(青梅泉中) 亀山先生(青梅2小) 川崎さん(あかぼこ山サークル)
6月23日(土)青梅市民会館会議室
サークル代表者会議もあり忙しい土曜日の中、約40名のお父さん、お母さん、青年の参加がありました。
会員外からも泉中のお母さん数名参加、保護者会の中ではなかなか時間がとれないので、
先生方のもつ子どもたちに対する悩み、現代の子どもたちが抱える、
もろさなどが聞けてうれしかったとの声がありました。
青年たちにとっても、普段かかわりあいのうすい学校のリアルな様子が聞けて驚くとともに、
先生方の一生懸命さに、子どもたちの想いが感じられていい刺激になったと。
ショッキングだったのは、朝の朝礼に(月曜日)に1割の子どもたちが時間に間に合わないという事実。
不登校以外にも生活のリズムの狂い、保護者の放任、土日のスポーツクラブで心身ともに傷ついて、
毎週月曜日に学校にこられない子どもなど・・・・
現代のひずみを見る思いでした。
暑さMAX キャンプもMAX
アツイ、あつーい毎日が続いています。
先日行われた子どもキャンプ第2回全体会。
狭い会議室の中で汗だくになりながら、ダンスの練習。
「あついよー!」「息がつまる」などの悲鳴を上げながらの1日でした。
でも、キャラバン会議になると一転「つりがしたい!!」とか「木を彫ってスプーンをつくるの!」
とか思いをたくさん出して、いきいきした表情に。楽しいキャンプになるといいね。
なんと今年は、3劇場一緒に中学生企画のきもだめしが出来ることに!!
そして、高校生はファイヤーと朝の集いを担当。
連日の会議に事務所の室温は40℃を越しそうなイキオイです!!
傷つき胸がつぶれそうな子どもたちへ
〜6月22日国立オリンピック記念青少年総合センター〜
講師 佐々木正美さん
東京ルンルン記念講演会に行った。
30余年の臨床試験から現在の子どもの状況、子どもにとって何が必要なを学んできた。
今、子どもたちがままごとあそびをすると、かわいがられ、大切にされているペットをやりたがる。
昔は花形だったお母さん役はやりたがらず、やっても指示・命令ばかり。
お父さん役はシナリオすら存在せずっどうしていいかわからない状況。
講師が診察した最初の学校恐怖症(不登校)は3人で、父親は3人とも船員であった。
父親のかげが薄いことが、なんらかの引き金になるのではないかと思い、
「父親という社会的存在としてのモデルが家庭の中で薄らいでいくと、社会的モデルが欠け、
学校というモデル社会に適応していけないのではないか」と当時発表した。
不登校といわれる子の母親は、神経質で指示・命令が多く、母の中の父性に近いものが強くなってきている。
家庭から父性が失われると、家庭の中からなくなるものは母なるものである。
1人の人間の中には、父性も母性もあり、子どもが育つプロセスの中で家庭において、
一人一人の中にある父性・母性がはっきりと順序よく働きかけられていなければならない。
これは、女性・男性の性別役割分担を越えた母性父性のことである。
母性とは、受容・承認・許容など、信頼のもととなる。
父性は、規則・規律・責任など規範のもととなる。
今子どもたちは、母なるものへの欲求要求が多くなってきている。
(保育者のひとりじめ)母なるものが与えられずに欠けている人には、父なるものは伝わらない。
母なるものが先に十分にあたえられていれば、父なるものは後から簡単に入っていくことができる。
今私たちは、本来は自然にひびきあうことができるコミュニケーションができなくなってしまっている。
子育ても親子だけは完成せず、不可能なのに、人の手を借りなくなってきている。
親とは違う祖父母や親戚、近所の人など、それぞれにちがった愛情が子どもにそそがれると価値がある。
「たった1人の子どもを育てるには村中の人の知恵と力がなければならない」という
アフリカのことわざがある。
子どもに絶対必要なのは、親が信頼している人の中で育てること。
親は自分が信頼できる人をつくる義務があるり、大人が信頼関係をきずいた中でこそ、
子どもに信じる感性が育つ。
人を信じる基本は親を信じる、親がら信じられれば、友だちと広く豊かに交わることができ、社会性が育つ。
子どもに過剰な期待をし、口を出せば出すほど、子どもは信じられていないことを実感し、
愛情として伝わることは絶対にない。
親からの信頼は、何も言わないこと。
友だちからものを学ぶ、教える経験ぬきにして、社会性が育つことはない。
子ども同士でどれだけたくさんのことを学んでくるか、その質よりも量の方が価値が高く、
これができている上で、子どもは大人から知識を学ぶことができる。
親はいろいろな人と豊かに交わり、やりとりをし、信頼関係を築く努力を惜しまず、
信頼できる人々との関係を子どもに提供しなければならないのだと、深く感じた。
ビーバーサークル 藤井久美子
子育てに絵本を (6) 宇佐美美絵子
言葉や文字も時代と共に変わってきている。
昭和39年に長男が生まれ、意志を貫き徹す強い子にと願って、徹「とうる」と名付けた。
明治生まれの私の祖母が「とーる君は元気?」と手紙をよこす。大正生まれの母は、
「とほる君、大きくなった?」と言ってくる。
私は「うちの子は、「とうる」じゃ!」と心の中で叫んだ。
昭和45年に小学生になった息子の持ち物に「とうる」と書いた。
教室の机には「とおる」と名札が貼ってある。
先生が現代送りは、「お」を使っているんですよと言われる。
「うちの子どもは「とうる」じゃ!」何だか腹が立った。
そう言えば、昔は怒ると「腹が立つ」と言った。
息子の時代は、「頭に来た」と言った。今の若者は、「むかついて」「きれる」
十代の凶悪犯罪が多いのはこれが原因か?
大人も本を読もう。最近読んだ本で「からだ・ことば」立川昭二著 早川書房が良かった。
広報に「しまじろう」についての投稿があった
に関しての投稿(2001.6月号広報)
広報に「しまじろう」についての投稿があった。
しまじろうがどうとかは別として、私はこの話の裏に、小さい子どもをかかえる母親の孤独を思った。
父親が長時間労働で不在がちだったり、子育てに関心がなかったり(?)、
地域のつながりが薄かったり…で、若い母親は、結構、子育てを一人でうけ負っているんだよね。
それがとても大変で、自分の大変さに共感してくれたり、
少し手助けしてくれることを求めているんじゃないかな。
それには、「しまじろう」はぴったりはまるんじゃないかと思います。
DMの体験漫画なんか読んでると、「あーそういうの、わかるわかる」とか思ったり、
内容も、幼児向けによく研究されていて、どうやったらいいかわからない"しつけ"もしてくれる、
値段も手頃だし、おもちゃを与える感覚で、やってみようかなーと思うんじゃないかな。
先日、「母親の孤独」について、「たとえば、予防接種も、集団でなく、個別接種が増えているし。」
と言っている人がいた。
「都合のよい日に受けられて、便利だわ」と思っていた私ですが、
「出会い」を切実に求めている人がいること、しかし社会的には人が切り離される方向にあるんだ、
と思いました。「子育て」なんて大事業を、何でも自分の責任で、
自分ひとりで何とかしなければならないと思ったら、不安になるのは当たり前かもしれません。
そんな人たちに、子ども劇場には、自分の子どものことばかりでなく、人の子どものことまで、
真剣に考えている人たちがいるよ、自分の子どもを知っている大人が、
バラエティー豊かにたくさんいると、楽になるよっていうことを知らせたいなと、この頃思います。
投稿 広報 2001年7月号
こんにちは!
「しまじろう」についての投稿が続いていますね・・・。
さて、先日、私の友人のお母さんが、『人形に、「愛情のおけいこ」がついているのが変だ』と言っていました。
わかります?
つまり、ある人形のパッケージを見ると、「愛情のおけいこ ○○ちゃん」と書いてあって、
しかも、「小さい子への愛情を学べるように、人形は、本物の赤ちゃんそっくりの手触りにしてあります・・・」
とかいうようなことが、書いてあるらしい。(私は見てないんです。すみません。)
彼女はそのことにびっくりして、「今は、そういうものでないと、愛情が学べないのかしら・・」
と言っていた・・・。
その話を聞きながら、私は、座布団を“赤ちゃん”にしていた知念さん(だったかなあ?)や、
ハンカチ遊びのともきちさんを思いだしていた。
ともきちさんもみたて遊び(遊び心)の大切さについて、語ってたっけなァ。
今の子どもたちに必要なのは、想像力とか・・・。
皆さんは、どう思われますか?
それにしても、このお人形さんが、なんていう名前か、幼児をお持ちのお母さんだったらわかるでしょうか。
「しまじろう」にしても、このお人形にしても、私は、ピンときてしまうんだなあ(流行ってるんだよ)。
それもこれも、1970年前後に生まれた世代だからだろうか?
(これについては、また今度・・・あんまり考察がすすんでないから。)
それではまた。 幼児部長F
子育てに絵本を(5)/宇佐美美絵子/(2001.5.号広報)
今日もよみきかせの実践からのお話を書きましょう。
田島征三作・画の「しばてん」偕成社版を読んだときのです。
腹を空かせた村人が庄屋の蔵をこわして食べ物をうばったのです。
役人は「庄屋の蔵を壊したのはだれだ!」と村人につめよります。
司会「さあ、みんなが村人だったらなんて答える?」
子ども「知らない。私たちじゃあないっていう」
司会「誰もやらないのに蔵がこわれるわけがないよ。米がひとりでになくなるわけがない。誰がやった!!」
子(A)「自分がやりました」
司会「えらいねえ、正直だ。よし、りょうくんをひっとらえて牢にぶちこめ!」
子(A)「えっ、おれじゃあない、おれじゃあないみんなでやった」
子(皆)「はい、やりました」
司会「よしっ、全員ひっとらえて牢にぶちこめ!」
子(皆)「えーっ!ちがう。ちがう。あのしばてんがやりました。」「そうなの、絵本もそういうの。」
しばてんがとらえられましたが、ばけもののしばてんはエヘヘと笑ってすぐ帰ってくると思いましたが、
とうとうそれっきり帰ってきませんでした。
・・・・と読むと、どの子もうなだれたまま顔をあげません。
そんなせっぱつまった時についた
嘘のつらさをみんながわかちあたのです。
そんな子どもたちのやさしさに出合ってついつい司会者のこちらまで涙ぐんでしまうのです。
絵本を子どもたちにであわせてやりたいと読みきかせて、ほんとうに楽しいひとときをもらっています。
みずみずしい感性と豊かな創造性をはぐくむのは何といっても幼い時から感動するものにたくんふれることだと思う。
まして、それが自分の大好きなお父さん、お母さん、お友達が一緒で、
ともによろこび、共に悲しみ、共に楽しんでくれるなら子供にとって至福の喜びとなって心に残る。
演劇を見ることはもちろんだが絵本も詠み手の息づかいや声を通して見知らぬ世界がすぐ目の前に見えてくる。
読み手と聞き手が一体になって楽しみを分かち合えるのは表現読みをするものの特典だろうか?
今後表現読みの学集会をやってみたいと思っているがどなたかお仲間になってくれませんか?
子育てに絵本を/宇佐美美絵子/03年4月号
まったく我が店のすぐそばに住んでいる人だとはつゆ知らず講演会を開きに行った。
飯野和好絵本作家。
代表作:「むかでの医者むかえ」/福音館・「ねぎぼうずのあさたろう」/福音館 などがある。
子どもの頃からチャンバラ遊びが大好きだったから絵を書いても時代がかかってしまうんです。
と話すのにも何となく時代がかかっていて笑ってしまう。
「ねぎぼうずのあさたろう」は朗曲調にかかれているがどんなふうに読み聞かせるのか質問したら、
先生自身うなって読んでくれた。
「私はね絵本を書きながら、『川風たもとにゆらりとうけてぇ〜』と唄いながら書いているんですよ。
楽しいですよ。」とおっしゃるが読み聞かせる身になってもらいたい。
昔私の父親が広沢寅造が好きだとまねしてたのを聞いたおぼえがあるがとても、
そんな節はおぼえられない。
こっそり誰もいない家の中でやってみたがウワーむずかしい!
うまく読めたらたのしいだろうなー
子育てに絵本を (7) 宇佐美美絵子
絵本を読んで聞かせるものも、読み手が感じとった心を聞き手に伝える伝道師みたいなものだと思う。
ところが夏休みで、はしゃいでいる子どもたちの耳に伝道師のことばなんか聞こえない。
男の子は、座布団を投げ合っている。
だるそうに寝転んでいる子もいる。
2〜3人の女の子たちだけきちんと膝をそろえて聞いている。
「ねえ、人頭石ってなに?」いきなり寝転んでいた子が起き上がって質問する。
−そうね、130cmっくらい。
このくらいの高さの石でね、
この石と同じ高さの背丈がなかったら税金を払わなくちゃいけないんだってーと
説明すると「義行はもうとられるな」「あ、なお美もだな」
「おれはチビで徳したな、大人になっても小さいといいね」
−ところがチビでも10才になったら全員払わせられるんだよー
「え〜ずるいよ、誰が決めたんだよ」「沖縄の殿様だろ」「ふざけやがって」
「頭にくるな、早くその先読んでよ」
もう誰も座布団を投げていない、皆、心を一つにして怒り、悲しみ、力を合わせて悪と戦った。
一冊の本が心を通わせてくれた。
『笛ふきカナシー』(沖縄民話)の読み聞かせより。
高学年部学習より/8月号広報より
〜小学生高学年・中学生にとって子ども劇場は必要か!〜
パネラー 山崎先生(青梅泉中) 亀山先生(青梅2小) 川崎さん(あかぼこ山サークル)
6月23日(土)青梅市民会館会議室
サークル代表者会議もあり忙しい土曜日の中、約40名のお父さん、お母さん、青年の参加がありました。
会員外からも泉中のお母さん数名参加、保護者会の中ではなかなか時間がとれないので、
先生方のもつ子どもたちに対する悩み、現代の子どもたちが抱える、
もろさなどが聞けてうれしかったとの声がありました。
青年たちにとっても、普段かかわりあいのうすい学校のリアルな様子が聞けて驚くとともに、
先生方の一生懸命さに、子どもたちの想いが感じられていい刺激になったと。
ショッキングだったのは、朝の朝礼に(月曜日)に1割の子どもたちが時間に間に合わないという事実。
不登校以外にも生活のリズムの狂い、保護者の放任、土日のスポーツクラブで心身ともに傷ついて、
毎週月曜日に学校にこられない子どもなど・・・・
現代のひずみを見る思いでした。
暑さMAX キャンプもMAX
アツイ、あつーい毎日が続いています。
先日行われた子どもキャンプ第2回全体会。
狭い会議室の中で汗だくになりながら、ダンスの練習。
「あついよー!」「息がつまる」などの悲鳴を上げながらの1日でした。
でも、キャラバン会議になると一転「つりがしたい!!」とか「木を彫ってスプーンをつくるの!」
とか思いをたくさん出して、いきいきした表情に。楽しいキャンプになるといいね。
なんと今年は、3劇場一緒に中学生企画のきもだめしが出来ることに!!
そして、高校生はファイヤーと朝の集いを担当。
連日の会議に事務所の室温は40℃を越しそうなイキオイです!!
傷つき胸がつぶれそうな子どもたちへ
〜6月22日国立オリンピック記念青少年総合センター〜
講師 佐々木正美さん
東京ルンルン記念講演会に行った。
30余年の臨床試験から現在の子どもの状況、子どもにとって何が必要なを学んできた。
今、子どもたちがままごとあそびをすると、かわいがられ、大切にされているペットをやりたがる。
昔は花形だったお母さん役はやりたがらず、やっても指示・命令ばかり。
お父さん役はシナリオすら存在せずっどうしていいかわからない状況。
講師が診察した最初の学校恐怖症(不登校)は3人で、父親は3人とも船員であった。
父親のかげが薄いことが、なんらかの引き金になるのではないかと思い、
「父親という社会的存在としてのモデルが家庭の中で薄らいでいくと、社会的モデルが欠け、
学校というモデル社会に適応していけないのではないか」と当時発表した。
不登校といわれる子の母親は、神経質で指示・命令が多く、母の中の父性に近いものが強くなってきている。
家庭から父性が失われると、家庭の中からなくなるものは母なるものである。
1人の人間の中には、父性も母性もあり、子どもが育つプロセスの中で家庭において、
一人一人の中にある父性・母性がはっきりと順序よく働きかけられていなければならない。
これは、女性・男性の性別役割分担を越えた母性父性のことである。
母性とは、受容・承認・許容など、信頼のもととなる。
父性は、規則・規律・責任など規範のもととなる。
今子どもたちは、母なるものへの欲求要求が多くなってきている。
(保育者のひとりじめ)母なるものが与えられずに欠けている人には、父なるものは伝わらない。
母なるものが先に十分にあたえられていれば、父なるものは後から簡単に入っていくことができる。
今私たちは、本来は自然にひびきあうことができるコミュニケーションができなくなってしまっている。
子育ても親子だけは完成せず、不可能なのに、人の手を借りなくなってきている。
親とは違う祖父母や親戚、近所の人など、それぞれにちがった愛情が子どもにそそがれると価値がある。
「たった1人の子どもを育てるには村中の人の知恵と力がなければならない」という
アフリカのことわざがある。
子どもに絶対必要なのは、親が信頼している人の中で育てること。
親は自分が信頼できる人をつくる義務があるり、大人が信頼関係をきずいた中でこそ、
子どもに信じる感性が育つ。
人を信じる基本は親を信じる、親がら信じられれば、友だちと広く豊かに交わることができ、社会性が育つ。
子どもに過剰な期待をし、口を出せば出すほど、子どもは信じられていないことを実感し、
愛情として伝わることは絶対にない。
親からの信頼は、何も言わないこと。
友だちからものを学ぶ、教える経験ぬきにして、社会性が育つことはない。
子ども同士でどれだけたくさんのことを学んでくるか、その質よりも量の方が価値が高く、
これができている上で、子どもは大人から知識を学ぶことができる。
親はいろいろな人と豊かに交わり、やりとりをし、信頼関係を築く努力を惜しまず、
信頼できる人々との関係を子どもに提供しなければならないのだと、深く感じた。
ビーバーサークル 藤井久美子
子育てに絵本を (6) 宇佐美美絵子
言葉や文字も時代と共に変わってきている。
昭和39年に長男が生まれ、意志を貫き徹す強い子にと願って、徹「とうる」と名付けた。
明治生まれの私の祖母が「とーる君は元気?」と手紙をよこす。大正生まれの母は、
「とほる君、大きくなった?」と言ってくる。
私は「うちの子は、「とうる」じゃ!」と心の中で叫んだ。
昭和45年に小学生になった息子の持ち物に「とうる」と書いた。
教室の机には「とおる」と名札が貼ってある。
先生が現代送りは、「お」を使っているんですよと言われる。
「うちの子どもは「とうる」じゃ!」何だか腹が立った。
そう言えば、昔は怒ると「腹が立つ」と言った。
息子の時代は、「頭に来た」と言った。今の若者は、「むかついて」「きれる」
十代の凶悪犯罪が多いのはこれが原因か?
大人も本を読もう。最近読んだ本で「からだ・ことば」立川昭二著 早川書房が良かった。
広報に「しまじろう」についての投稿があった
に関しての投稿(2001.6月号広報)
広報に「しまじろう」についての投稿があった。
しまじろうがどうとかは別として、私はこの話の裏に、小さい子どもをかかえる母親の孤独を思った。
父親が長時間労働で不在がちだったり、子育てに関心がなかったり(?)、
地域のつながりが薄かったり…で、若い母親は、結構、子育てを一人でうけ負っているんだよね。
それがとても大変で、自分の大変さに共感してくれたり、
少し手助けしてくれることを求めているんじゃないかな。
それには、「しまじろう」はぴったりはまるんじゃないかと思います。
DMの体験漫画なんか読んでると、「あーそういうの、わかるわかる」とか思ったり、
内容も、幼児向けによく研究されていて、どうやったらいいかわからない"しつけ"もしてくれる、
値段も手頃だし、おもちゃを与える感覚で、やってみようかなーと思うんじゃないかな。
先日、「母親の孤独」について、「たとえば、予防接種も、集団でなく、個別接種が増えているし。」
と言っている人がいた。
「都合のよい日に受けられて、便利だわ」と思っていた私ですが、
「出会い」を切実に求めている人がいること、しかし社会的には人が切り離される方向にあるんだ、
と思いました。「子育て」なんて大事業を、何でも自分の責任で、
自分ひとりで何とかしなければならないと思ったら、不安になるのは当たり前かもしれません。
そんな人たちに、子ども劇場には、自分の子どものことばかりでなく、人の子どものことまで、
真剣に考えている人たちがいるよ、自分の子どもを知っている大人が、
バラエティー豊かにたくさんいると、楽になるよっていうことを知らせたいなと、この頃思います。
投稿 広報 2001年7月号
こんにちは!
「しまじろう」についての投稿が続いていますね・・・。
さて、先日、私の友人のお母さんが、『人形に、「愛情のおけいこ」がついているのが変だ』と言っていました。
わかります?
つまり、ある人形のパッケージを見ると、「愛情のおけいこ ○○ちゃん」と書いてあって、
しかも、「小さい子への愛情を学べるように、人形は、本物の赤ちゃんそっくりの手触りにしてあります・・・」
とかいうようなことが、書いてあるらしい。(私は見てないんです。すみません。)
彼女はそのことにびっくりして、「今は、そういうものでないと、愛情が学べないのかしら・・」
と言っていた・・・。
その話を聞きながら、私は、座布団を“赤ちゃん”にしていた知念さん(だったかなあ?)や、
ハンカチ遊びのともきちさんを思いだしていた。
ともきちさんもみたて遊び(遊び心)の大切さについて、語ってたっけなァ。
今の子どもたちに必要なのは、想像力とか・・・。
皆さんは、どう思われますか?
それにしても、このお人形さんが、なんていう名前か、幼児をお持ちのお母さんだったらわかるでしょうか。
「しまじろう」にしても、このお人形にしても、私は、ピンときてしまうんだなあ(流行ってるんだよ)。
それもこれも、1970年前後に生まれた世代だからだろうか?
(これについては、また今度・・・あんまり考察がすすんでないから。)
それではまた。 幼児部長F
子育てに絵本を(5)/宇佐美美絵子/(2001.5.号広報)
今日もよみきかせの実践からのお話を書きましょう。
田島征三作・画の「しばてん」偕成社版を読んだときのです。
腹を空かせた村人が庄屋の蔵をこわして食べ物をうばったのです。
役人は「庄屋の蔵を壊したのはだれだ!」と村人につめよります。
司会「さあ、みんなが村人だったらなんて答える?」
子ども「知らない。私たちじゃあないっていう」
司会「誰もやらないのに蔵がこわれるわけがないよ。米がひとりでになくなるわけがない。誰がやった!!」
子(A)「自分がやりました」
司会「えらいねえ、正直だ。よし、りょうくんをひっとらえて牢にぶちこめ!」
子(A)「えっ、おれじゃあない、おれじゃあないみんなでやった」
子(皆)「はい、やりました」
司会「よしっ、全員ひっとらえて牢にぶちこめ!」
子(皆)「えーっ!ちがう。ちがう。あのしばてんがやりました。」「そうなの、絵本もそういうの。」
しばてんがとらえられましたが、ばけもののしばてんはエヘヘと笑ってすぐ帰ってくると思いましたが、
とうとうそれっきり帰ってきませんでした。
・・・・と読むと、どの子もうなだれたまま顔をあげません。
そんなせっぱつまった時についた
嘘のつらさをみんながわかちあたのです。
そんな子どもたちのやさしさに出合ってついつい司会者のこちらまで涙ぐんでしまうのです。
絵本を子どもたちにであわせてやりたいと読みきかせて、ほんとうに楽しいひとときをもらっています。
2006年 |
子育てに絵本を |